意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

東北の神武たち(深沢七郎)「貧村の口臭がひどすぎる童貞が主人公の小説とは」

深沢七郎さんという作家は、一般的には人気がある部類とはいえないが、姥捨ての話を書いた「楢山節考」は映画にもなってよく知られている。

 

その「楢山節考」も、「東北の神武たち」も、深沢七郎さんのそのほかの著作も、たいてい貧しい庶民が主人公で、一般的な魅力に欠けているので人気にはならないが、小賢しいインテリ作家では足元にも及ばないくらい、異質な才能をもった作家だ。

 

神武は、東北なまりで「ずんむ」と読む。それは長男以外の男のことで、いまは少子化で悩んでいる日本も、むかしの貧しい村は人口が増えると食い扶持が減るので、多すぎる子どもは望まれないことになる。女は家のことをやらせたり嫁がせることもできるが、男が増えると家が枝分かれして分割された田畑が先細りしていくので、長男以外は性行為をさせないという村の掟がある。

 

主人公は「ずんむ」である上に口臭がひどく、女たちに避けられている。

 

ひょんなことから「ずんむ」にも一度だけ性体験ができるチャンスが訪れるが、主人公は口臭のせいでどうなるかわからない。他の「ずんむ」たちが次々に性体験していくなかで、主人公は、自分は口臭のせいで無理かもしれないと落ちこみ、気をもむ。

 

ストーリーを触りだけ書いてみても、「本屋大賞」のような流行りものからもっとも遠いたぐいの小説だとわかる。流行に敏感な若い読者モデル風の女たちを集めてこの小説を読んでもらい、感想文を一冊の本にしてみたい。

 

ラストは衝撃的で、なにが衝撃かというと、主人公的にはものすごい幸運が舞いこんできたのがひしひしと伝わるのに、まったくうらやましくないことが起こる。

 

それは、流行作家によくあるように、共感を得るために人を病気にして殺したり、自殺させたりせず、どこかで見たような若者の日常を垂れ流したりもしなければ、目新しさを狙って奇をてらうでもない。まったく共感できない、魅力のかけらもない人間たちのさもしい生活を書いているのに、小説として目が離せず、別格の破壊力があるのは稀有なことだ。

 

深沢七郎さんのような作家はほかにいない。ほかにない、ということは読む価値があるということだ。

八千メートルの上と下(ヘルマン・ブール)「もしそれがなかったとしたら」

著者のヘルマン・ブールさんは登山家で、世界で14座ある8000メートル峰のうち、ナンガ・パルバットという通称「魔の山」に初登頂した、超人的な伝説の人だ。その登頂記が「八千メートルの上と下」だ。

 

登山に興味のない人は、読もうと思わないかもしれないが、この本には、登山を超えて深く心に刻まれるなにかが確実に書かれている。

 

最後の頂上アタックを単独無酸素かつ、近代的な装備を用いずに行ったということが、当時の8000メートル峰の登頂では極めて異例だった。大集団で大荷物を抱えて、グループで助け合いながら登るのが高峰登山ではいまだ主流の時代だ。現代のように情報にあふれ、便利な道具がたくさんある時代ではない。

 

当時のナンガ・パルバットは、だれひとり登頂したことはなく、有力な登山家たちがすべて敗退し、ときに死んだまさに魔の山だ。ヘルマン・ブールさんほどの超人でさえも、標高7500メートル付近で仲間がリタイヤして、ひとりの頂上アタックを決意したあとは、ぼろぼろになって、幻視幻聴のなかでふらつきながら頂上に向かって進んでいく。

 

そこで、御守代わりにもっていた興奮剤(?)の一種を、使うかどうか迷う。

 

それを使うと楽になるかもしれないが、極限の状況では、その副作用が命とりになるかもしれず、使うつもりのなかったものだ。しかし、ぎりぎりのところで、すべてのリスクを引き受けて、ヘルマン・ブールさんはそれを使うことにする。ここがハイライトだ。

 

使ってもとくに変化は感じなかった、とヘルマン・ブールさんは言う。しかし同時に、もしそれがなかったら、そもそも途中で力尽きていたのかもしれない、とも考察している。

 

なぜなら、人生は一度きりで、それを使っていない場合どうなったかは絶対にわからず、とくに命を賭けるような挑戦においては、同じ瞬間の別の選択肢を比較することはできないからだ。

 

人生において、あのときああだったら、とか、こうだったら、という過去の選択を悔いて、違った現在を夢想することがある。あるいは、散財したりして、あれは無駄だったな、と思ったりする。

 

しかし、その散財がなかったら、ここまでたどり着けなかったかもしれない。

 

あるいは、たばこをやめて、たばこは無駄だった、百害あって一利なし、と態度をひるがえす人間がいて、酒でも同様のことがある。

しかし、もし酒やたばこがなかったら、彼ら彼女らは、過去をしのいで現在までたどり着けただろうか。

しのいだあとに、その効果がなかったというのは傲慢にすぎる。

 

そういうことが、この本には書いてある。希代の登山家が書いた、すごい本だ。

さようなら窓(東直子)「文学は、模写すればそっくり同じものが書けるとしても」

作者の東直子さんは、短歌を書く歌人だ。

その作品をいくつか目にしたことがあるが、自分の感覚にないリズム感や言い回しがでてくることが多くて、はっとさせられることがある。

 

文学というのは、音楽や美術と違って、文字を一言一句なぞいっていくと、どんな大天才の文章でもそっくりそのままコピーできるという特性がある。

 

音楽は、楽譜があって、演奏をみせてもらっても、プロのバイオリン弾きを見たアマチュアが同じには弾けない。モナリザを見ても、素人がモナリザを描けるわけでもない。

 

しかし、文学なら、極論すれば、文字の意味さえわからなくても、同じかたちの文字をそっくりに書きさえすれば、書いた本人が理解していなくても、まったく同じ作品になる。それが文学というものが持つ特性だ。

 

だから、言語感覚がどんなにすぐれている人の書いた作品でも、書き写せば、まったく同じものが書ける。好きな作家の作品を書き写すと、同じものが書けるのだから、楽しい。そんなわけはない。文章修行にはなっても、ふつう、そんなに楽しくはならない。

 

なぜなら、文学は、ほかの芸術と比べて、新しく生み出すことにより重点が置かれているからだ。

 

音楽も美術も、すでにあるものをできるだけ上手になぞる技術がほめられる世界がある。クラシック音楽なら、すべての曲を楽譜通りに完璧に演奏できたら、プロになれるだろう。人物や風景をそっくりそのままに写実できれば、それもまた商売になりうる。

 

しかし、文学作品をすべて完璧に書き写しても誰もほめてくれない。当たり前のことだ。そんなことは、AIすら搭載していないコンビニのコピー機が、ほんの一瞬でできることだから。

 

だからこそ、自分では思いもつかない表現を生み出す人の文章を目にすると、自分の才能のなさにがっかりすることすら忘れるほどの畏怖をおぼえることがある。

東直子さんという人は、ときに、そういう文を書く。

 

東直子さんは歌人なので、本職の短歌のほうがはるかにすばらしく、小説のできは、短歌ほどではないようだ。

それでも、ここに小説「さようなら窓」を紹介したということは、そのくらい突出したなにかがあるということだ。

 

その「なにか」がなんなのかは、残念ながらよくわからないとしても。

KAGEROU(齋藤智裕)「文学を志す勇気を与えてくれる本」

前回、又吉直樹さんの「東京百景」で触れたので、ほんとうは素晴らしい本のことしか書きたくないが、あえてこの本にも触れておく。この本は、元人気俳優さんが書いたもので、芸名を隠して本名でP社の賞に応募した体で大賞をとり、その後、本人だとわかったというプロモーションでベストセラーになった作品だ。

 

しかし、一部週刊誌の八百長報道がすべて正しかったかは置いても、P社がどう言い訳しようとも、一般人の応募なら受賞することはなかったと断言できる。この本を本屋でどんなものかと立ち読みしたが、編集済みゆえに文章の意味が通じないようなひどさはないとしても、賞金二千万円の賞に到底値するレベルではない作文だ。

 

それは、プロの作家や編集者であればぜったいに違いがわかるレベルで、たとえば駒の動かし方を覚えただけの素人の将棋とプロの将棋を、将棋を生業とする人が見分ける程度にはよくわかる。

 

作者は悪くない。出版社が出そうとしなければ、本は出版されないのだから。

 

大賞の二千万円の賞金はなぜか辞退され、KAGEROUは話題性で数十万部売れた。目先の金を得ることには成功したといえるが、P社の文学的信用は地に落ちた。

 

著名人の作品を売り出すなら、どこかの雑誌に出すとか、単行本を出すとか、すでに名前があるのだから方法がいくらでもある。たとえば芸人で芥川賞作家の又吉直樹さんは、そのようにしてデビューした。名前や素性を隠したりはしなかった。

 

しかし、このP社の賞のような公募の文学賞は、名もない一般人がそれぞれの人生の時間を削って書いた文学作品を集めている公募の賞で、このときは1200もの作品の応募があったという。

 

1200人もの一般人の人生をだしに使って、著名人を売り出すための出来レースをするというのは、下劣極まりないことだ。

それをしておいて、見え透いた言い訳をすることも。

 

1200人のだしにされた人生の時間に報いるためにも、人間だれにでも探せばどこかいいところがあるのと同じように、KAGEROUにもどこかしらいいところがあるべきだ。

そして、それはある。

 

それは、市井の名もない人間に「こんな作品でも世に出すことができるんだな」「自分でもこれよりはよいものを作れるだろう」という勇気を与えてくれることだ。

 

素晴らしい文学作品は、それが素晴らしければ素晴らしいほど、感動を与えるために差し伸べられた逆の手で殴りつけ、挑戦者たちの勇気をくじく。

 

KAGEROUを読んでも、文学的には、なにひとつ得るものはない。それは約束できる。

 

しかし、KAGEROUは、少なくとも文学を志す人間に、どんな最上の文学作品よりも勇気を与えてくれるはずだ。

東京百景(又吉直樹)「感動的とさえ言えるマスターピース」

いちばん最近読んだ、最近出た本だ。著者の又吉直樹さんは芸人で、芥川賞作家。

 

十数年、部屋にテレビのない生活をしているので、正直、又吉さんの芸人としての側面には疎い。

 

そして、現時点で、又吉さんの芥川賞受賞作「火花」(ずっと花火だと誤認していた)などの小説は読んでおらず、映画で見て面白かったのでそれで満足してしまったところがある。ほかの作品も次々に映画化されそうなので、純粋に文章を読むために、このエッセイとも小説とも言えそうな短編集を買った。

 

わたしはたぶん、世間一般の水準からすると、わりと本は読むほうで、海外文学(欧米以外を含む)や古典文学、ときに英語限定で原文を読んだりするのだが、その中でいちばんにこの本をもってきた意味は、最近読んだというのもあるが、そのくらいよい本だと思ったからだ。

 

どうせ有名な芸人さんが書いたから、売れたり賞をとったりしたんでしょう。

 

という先入観がなかったわけではないし、それはひとつの事実だと思う。 

もし又吉さんがそれなりに名のある芸人でなければ、そもそも発表のチャンスは与えられなかった。又吉さんは、芸人生活の恩恵ではじめから自分の名前で文章を書く場が与えられた人で、名もないその他大勢とは明確に違う。

 

それはそれとして、又吉さんの作品は、たとえばかつてP社の賞を出来レースでとった元俳優さんの「KAGEROU」なる小説とは比較にならない。してはいけない。文学の世界では、たしかに、コネや世襲的な要素もじつは大きい。しかし、この「東京百景」を読めば、もし又吉さんの小説を一冊も読んでいなくても、芸人としてのネタを見たことがなくても、頑張った作文レベルで文学している人ではないことがわかる。

 

「東京百景」を読むと、又吉さんが芥川賞をもらったことを、「東京百景」のどこかにいたかもしれないひとりとして、ともによろこびたくなる。又吉さんと同世代のいわゆるロストジェネレーションの人、あるいはそうでなくても自分は不遇だ、と思って、他人の成功をうらやむことの多い人にはあえてすすめたい。

 

全体のトーンとして、「東京百景」のなかの又吉さんは長い不遇を経験していて、それは本当だったのだと思う。同時に、一貫してずっと恵まれていたのではないかと思う。というのは、出てくる人たちがよくも悪くも非常に魅力的で、先輩や後輩や相方、そういった存在が語るべき内容をもたらしている。語るべき内容がある人生というのは、ないよりはいくらかマシなはずだ。文学というのは、つまるところ人間を書くものだと思うからだ。

 

「東京百景」のいちばんの読みどころは、漫才コンビ「ピース」の相方、綾部さんについての後記と、「せきしろさん」の章だ。

 

字面でしか知らなかったせきしろさんが、低俗な雑誌「SPA!」の低俗な企画「バカはサイレンで泣く(通称バカサイ)」の人だとはじめて知った。バカサイを読むために、「SPA!」を毎号コンビニで立ち読みしていた一時期があった。「東京百景」のせきしろさんの章を読み、滅多にしない感動をした。その行いを知れただけでも、この本には価値がある。