意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

グレート・ギャツビー(スコット・フィッツジェラルド)「疑いなく至上最高の小説のひとつ」

 この小説を小説家の村上春樹さんが第1位に位置づけているのは有名だが、「グレート・ギャツビー」をどう評価するかということが、「小説を読める」ことについてのひとつの指標になるかもしれない。

 

村上春樹さんは代表作「ノルウェイの森」の登場人物に「グレート・ギャツビー」を読む人間は信用できる、死語50年を経ていない作家は読まないが(当時)まだ50年たっていないフィッツジェラルドはアンダーパーでOK、というようなせりふを言わせた(と思う)。作者の文学的な好みを登場人物同士で語らせるというのは褒められた手法ではないかもしれないが、そのくらいのことだということだ。

 

本屋大賞に出てくるような流行小説が「グレート・ギャツビー」を凌駕する可能性は限りなくゼロに等しく、ゼロと言い切ってしまってもいい。両者を比較して「なにが好きな小説か」という質問で流行小説を挙げるならともかく、「どちらがよい小説か」を問われて「グレート・ギャツビー」を選ばない人に小説を見る目はない。「グレート・ギャツビー」と並び立つ小説はそう多くはない。たしかアメリカの小説のオールタイムベストの1位にも選ばれた。

 

かつては「グレート・ギャツビー」のなにがグレートなのか、よくわからなかった。

 

そういう人がけっこう多いということが、村上春樹版の翻訳のあとがきにも書いてある。それで村上春樹版を読んで、傑作だということがわかったので翻訳は同氏のものをおすすめする。人気のある同氏の小説群だが、いちばんの仕事は「グレート・ギャツビー」の翻訳だといっても過言ではない。

 

この「グレート・ギャツビー」という小説には、人生に対する姿勢のようなものが書いてある。

 

時代に翻弄されて手からこぼれ落ちてしまった過去の愛を取り戻そうと、手段を問わず全身全霊を尽くすギャツビーの姿は、はたから見たら滑稽で、うすっぺらにさえ見えるかもしれない。

 

一般的な社会生活のなかでは、安定した仕事や立場が先にあって、それを基盤として恋愛や結婚をしたりする。そのなかで、自分が好きな人とは違う人と付き合ったり、自分なんて、とひとりでいじける。金持ちになって意趣返しとばかりに女をはべらせる。もしくは選べるうちで一番いい女を手に入れる。

 

一見、「グレート・ギャツビー」は、ありふれた俗っぽい金持ちの恋愛話のようにも見え、映像作品の派手な演出でなおさらそうなってしまいそうだが、まったく違う。

 

ギャッツビーは、ただひとりの女にだけ向けて、人生におけるすべての力を注ぎ、あらゆる手段をとる。それも、向かっているのは未来ではなく、過去に女とふたり幸福だった時代をそっくり再現するために。

 

その姿勢をギャツビーは、小説の最後まで貫く。

それは、社会生活を「まっとうに」送っているはずの人間には受け入れがたい生き方だ。だからこそ、小説の終盤、主人公がギャツビーにかけた最後の言葉が胸を打つ。そのひと言には、だれにも理解されない自分だけの人生を生きている人を鼓舞する力がある。