意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ)「軽さは重さより劣るのか」

「存在の耐えられない軽さ」は、日本語のタイトルが素晴らしくよい。

 

このタイトルと、チェコ出身の作家「ミラン・クンデラ」の名前だけで、ひとつの作品であると言ってしまってもいいくらいだ。

正直、本の中身はほとんど覚えていないが、タイトルが醸し出す雰囲気のなかで、作者の語りをまじえて人間観察のような描写がつづく。

 

登場人物には、だから、愛着がわきすぎることもなく、登場人物同士も完全に信頼しきってはいない。

人間存在のあまりの軽さ、人生の瞬間がすべて一度きりということの軽さは、個人から見た逆の見方をすれば重さでもあるのだが、この小説ではそれを俯瞰して軽さとする。

 

だからといって、「軽さ」が「重さ」に劣るとはだれも言っていない。

 

体重は軽すぎなければ軽いほうがいいと思う女性は多いし、スマートフォンでもなんでも重いより軽いほうがいい。適度な重さが所有欲を満たすことがあるとしても、近現代の人間は全体的には、軽く、薄っぺらくする方向性を進化と呼んできたはずだ。

 

先進社会では、IT技術の進歩によって、人間存在の軽さと薄さが極まりつつある。

 

だれもがだれとでもつながれる、ということは、ほとんどすべての人間が代替可能ということと等しい。だれもがつながりたいような一部の人間が総どりして、その他大勢の人生に出番はない。

昔なら、家庭のなかや、町内レベルで存在を誇示できたコミュニティが全世界に広がる。家庭のいちばんや町のいちばんなど、世界レベルではごみ扱いで敬意が払われることもない。

 

人間はそうやって、長年かけて獲得した自由と尊厳を、自らを追い詰める方向に向けて行使している。

 

「存在の耐えられない軽さ」は、そういうことを書いた小説では、たぶんない。

 

読んだのに内容はほとんど思い出せないが、この最上のタイトルを目にしたら、そこに書いてあるはずの根源的な示唆を求めて、一度は通読したい欲求にかられるものだろう。