意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

麻雀放浪記(阿佐田哲也)「残金が百円でもそれはプロセスに過ぎない」

現代においてさほど競技人口が多いとも思えない「麻雀」を題材にした娯楽小説なのに、人生観にまで影響を与えるほどの作品で、いちばん好きな小説はなにか、と問われれば、迷わずいちばんに推す候補になるほどの小説だ。作者の安佐田哲也は、本名の「色川武大」名義で直木賞などの大きな文学賞をとっているが、色川名義の作品よりも「麻雀放浪記」とその一連のシリーズのほうがはるかに素晴らしい。作家のなかでだれが好きか、と聞かれたら、阿佐田哲也という人も、じつは多いのではないか。まだ、作家自身と、書くものの一体性が信じられていた時代の人だ。

 

麻雀放浪記」には、小難しいことを言うことなく、回りくどい描写や比喩があるわけでもなく、ただ淡々と、戦後の焼け野原から復興しつつある雑然とした日本を「ばくち」で生き抜こうとする男女の姿が描かれる。ばくちでは、得るものがいれば必ず失うものもいて、結果としてトントンで終わるものもいる。主人公がどうにかその場をしのいだかに見えても、シリーズを重ねれば、年老いて若手の後塵を拝すようになる。

 

そういったことが、麻雀を中心としたばくちを通して、生き生きとつづられる。

なぜ、この作品は、こんなにも魅力的なのか。それは、世間的に見れば人間の底辺であり、屑であるばくち打ちの主人公が、なにものにもよらず、独立して言い訳をしない姿勢であり、一見して突き放したような書き方をしながらも、最終的に全員が敗者になるかのような登場人物たちへの作者の愛と敬意が根底に感じられるからかもしれない。

 

大人になると、会社勤めをして、結婚をして、子どもを育てて、そういうのが「まともな大人」であり、「まともな人生」だという空気に折れそうになって、じっさい、主人公もかつてのようなばくち打ちではなくなっていくのだが、それでも、人生のあるほんの一瞬だけでも、世間的なよしあしを度外視して人生をまるごと賭ける行為に没入するということは、人間になにかを残す。その人生を賭ける対象が、困難な登山などではなく、同じ属性の他者との金の奪い合いという非生産極まりない行為であるからこそ、ますます生の輝きを増すことになる。

 

阿佐田哲也が、自分は落ち目だと絶望する知人を前にして、

「きみは十万円もって賭け事をして残りが百円になったら負けと思う人だ。しかし、百円が残っていればまだ賭けられるのだからその時点ではプロセスであって、勝ちでも負けでもない」

というようなことを語ったという。

そういう人が書いている小説が、面白くないわけがない。