意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

山月記(中島敦)「我流で孤高を貫こうとする人たちへ」  

 

文学を志すような人間には、人と積極的に交わる人もいるが、多くは人と交わらず、教わることをよしとせず、我流で傑作をものにしようと、社会に出てからも文学中心の孤独な人生を歩む。そして、その大半が何年たってもよい作品をものにできず、現実を知り、いずれ一般的な仕事につくのだが、あきらめるまでの時間が長いぶん本業が定まらず、仕事の経験もないので、同年代より社会的地位は低くなる傾向にある。

 

中島敦さんの「山月記」の登場人物、李徴は、詩人としての才能がありながら、他人と切磋琢磨するのをよしとせず、人から離れて詩作に専念していたが、結局、超一流にはなれず、年を重ねてから一般の公務につく。そして、学生のころ見下していた凡才たちは年齢なりの地位にいて、その下で働くことになり、発狂して虎になってしまう。

 

かつて李徴の学友だった主人公は、ある日、虎になった李徴に遭遇する。

自我が崩壊しかけている虎(李徴)の最後の詩を主人公は聞くものの、いい詩だが超一流には足りない、という評価をくだす。虎になってまで詩作を続けても、目指すところに届かないということは残酷だ。

 

自分への期待が高い、そこそこ優秀な人間は、李徴と同じような人生を歩みやすいが、他人と深く接することなく過ごしやすい現代においては、凡人までが李徴になりうる。

たいして面白くもない、誰でもできそうな仕事でも、公務員や正社員で定年まで働いていたら、それなりの地位と収入になったりもする。なにかに殉じることができるということは信頼になり、社会はそういう人たちが回している。

 

李徴の弱さは、自分を信じて詩作に最後まで殉じることができず、ぎりぎりのところで日和って、世間一般の道に戻ったことだ。その弱さで李徴は虎になった。虎になるくらいなら最後まで孤高の詩人でいればよかったのだが、それこそ李徴が超一流ではないゆえんだ。

 

現代詩作家の荒川洋治さんがどこかで、「現世では詩人の生きる道などない」という趣旨のことを書いていた。著作「文芸時評という感想」のなかだったかもしれない。文学を人生の中心として志そうとする人間は、その言葉を胸に刻んで、忘れないようにしたい。

 

山月記」は非常に短い小説で、文体は古典的で硬質だが、とても読みやすい。なにより格調の高さは比類ない。格調が高いということは、こういうことだ、という文章だ。

日本の小説でもっとも格調高い小説と聞かれたら、答えは「山月記」で間違いない。