意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

スローなブギにしてくれ(片岡義男)「ただそれだけの話」

捨て猫を拾う女が、道路上で男に捨てられて、それを拾ったバイクの男が女を拾い、猫と一緒に連れ帰る。そして、猫を拾ったり、捨てたり、くっついたり、離れたりする。

ただそれだけの話だ。

 

最低限の描写で、あっさり読める短編だが、残る印象は鮮やかだ。

 

「ただそれだけの話」を書くのは、じつは難しい。ひとつ間違えると、あらすじか脚本まがいになってしまう。

そこで、あれこれ説明しようとして、描写が増え、登場人物が増え、出来事が増え、さまざまな立場や思想が出てくると、いったいそこになにが書いてあったのか、わからなくなることがある。

 

長編小説を読んで「結局なんだったのか」と思うことや、「このくだりは、ページ稼ぎではないか」と感じたことが、だれしも一度はあるのではないだろうか。

もちろん、それはそれで悪いことばかりではないが、とくに若いころは時間もあるので、量が質を担保すると思いがちだ。しかし、良質な短編小説を読むと、「長編小説というのは、単に、さもしい作家の原稿料の水増しなのではないか」と思えてくる。どちらにも良作と駄作があるが、短編なら駄作をつかんでも時間の損失は少ない。

 

「スローなブギにしてくれ」は、間違いなく良作だ。

 

必要最低限のところまでそぎ落とされた文体で、そぎ落としすぎではないかと思えるぎりぎりの会話がつづく。それが、この小説に書いてあることがなんなのかを、読んでいる人間にもわかるように際立たせる。もちろん、タイトルはせりふであって、どこかでそっくり登場することになる。

 

小説も、あらゆる芸術と同じように、「なにを書くか」以上に、「なにを書かないか」が重要になる。

なぜなら、書こうと思えば、知っていることはどこまでも書き続けられるし、修飾や比喩もどこまでもくどくできる。何人でも登場人物を出せるし、いくつでも出来事も起こせる。だからこそ、そこからなにを削るのかが重要になる。「書く」ことだけを考えて「書かない」意識がない文章は贅肉だらけで冗長になる。

 

「書くこと」だけを持っている作家は二流で、一流は「書かない」ことを同時に持っている。「書かないこと」しか持っていない人は、作家になることはできない。

 

「スローなブギにしてくれ」は、そういう一曲の音楽をレコードで聴いている、そんな感じの短編かもしれない。作者がそんなことを、どこかで言っていたかもしれないし、言っていないかもしれない。

 

それがどうだったかは覚えていないが、「スローなブギにしてくれ」のことはちゃんと覚えている。