意味ありげな生を求めて

あるかわからない人生の意味を、文学の森で探す手書きの地図

海も暮れきる「咳をしてもひとり。とキャッチコピーの違い」

尾崎放哉といわれてもピンとこなくても、「咳をしてもひとり」の自由律俳句は知っているという人は多いのではないか。

 

代表作に数えられるその句は、結核になった尾崎放哉が晩年、小豆島のお遍路の札所で庵主をやっているとき、文字通り血を吐きながら書かれたものだ。いまのようにスマホもSNSもないので、書かれたものは郵便で俳友に送られることになる。そして、尾崎放哉はやせ衰えて、小豆島で死ぬ。

 

「海も暮れきる」は、その小豆島での尾崎放哉に焦点をあてて、観察者のようなきわめて客観的な視点で書かれた作品だ。

 

 尾崎放哉という人は、旧帝大(現東大)法学部卒で、東洋生命保険(現朝日生命保険)に勤めたエリートだが、酒におぼれ、職を辞して、妻とも離れて、自ら島流しになるように小豆島での極貧生活に入る。

 

「海も暮れきる」にも書かれていることが事実であれば、性格はとてもほめられたものではなく、酒癖が悪く、助けてくれるときだけ人に媚び、要求がのまれないと徹底してけなすような屑だ。それでも、周囲の人間は彼の存在をゆるし、なにかと救いの手をさしのべる。そういったなかで、後世に残る句ができる。尾崎放哉の傲慢さえ、作られた俳句を際立たせるための背景になる。

 

いまの時代にはツイッターなどのSNSが盛んで、どこにいても、不特定多数に対して、自分の言葉をばらまき、または、他人のつぶやきを拾うことができる。それはそれでいいことなのかもしれないが、逆にいえば、孤独にさえなりきれないなかで、お手軽な言葉が応酬される。

 

人が死んだときでさえ、ツイッターで不特定多数に向けてお悔やみを言うとき、どんな気持ちでなんのためにそうしているのか。自分や他者を冷徹に見つめる孤独はなくなって、その目は、死を前にしてさえ、不特定多数を向いている。

 

 つぶやき全盛の簡単便利な時代に、自由律俳句という形式は親和性がありそうだが、そのわりにインパクトのあるものはただのひとつも流布していない。

 

キャッチコピーとすぐれた自由律俳句の違いは、前者は全体の一部のいいところだけを切り出したり、語感や雰囲気で実物以上のことを誤認させることにあり、後者はその一句で状況が過不足なく表現され、なおかつそこから広がっていくものがある。最近は「こんなのがほしかったんでしょう」といわんばかりのキャッチコピーまがいの句ばかりが賞賛されるが、隅々までキャッチコピーに毒された社会の空気は審査側まで浸している。

 

尾崎放哉は、人生も、その句作も、おおよそキャッチコピーから遠い人だ。耳障りのいいキャッチコピーから目を離し、その句をひとつずつ、丁寧に読んでみるのも、審美眼の再生のためにはいいだろう。

 

スローなブギにしてくれ(片岡義男)「ただそれだけの話」

捨て猫を拾う女が、道路上で男に捨てられて、それを拾ったバイクの男が女を拾い、猫と一緒に連れ帰る。そして、猫を拾ったり、捨てたり、くっついたり、離れたりする。

ただそれだけの話だ。

 

最低限の描写で、あっさり読める短編だが、残る印象は鮮やかだ。

 

「ただそれだけの話」を書くのは、じつは難しい。ひとつ間違えると、あらすじか脚本まがいになってしまう。

そこで、あれこれ説明しようとして、描写が増え、登場人物が増え、出来事が増え、さまざまな立場や思想が出てくると、いったいそこになにが書いてあったのか、わからなくなることがある。

 

長編小説を読んで「結局なんだったのか」と思うことや、「このくだりは、ページ稼ぎではないか」と感じたことが、だれしも一度はあるのではないだろうか。

もちろん、それはそれで悪いことばかりではないが、とくに若いころは時間もあるので、量が質を担保すると思いがちだ。しかし、良質な短編小説を読むと、「長編小説というのは、単に、さもしい作家の原稿料の水増しなのではないか」と思えてくる。どちらにも良作と駄作があるが、短編なら駄作をつかんでも時間の損失は少ない。

 

「スローなブギにしてくれ」は、間違いなく良作だ。

 

必要最低限のところまでそぎ落とされた文体で、そぎ落としすぎではないかと思えるぎりぎりの会話がつづく。それが、この小説に書いてあることがなんなのかを、読んでいる人間にもわかるように際立たせる。もちろん、タイトルはせりふであって、どこかでそっくり登場することになる。

 

小説も、あらゆる芸術と同じように、「なにを書くか」以上に、「なにを書かないか」が重要になる。

なぜなら、書こうと思えば、知っていることはどこまでも書き続けられるし、修飾や比喩もどこまでもくどくできる。何人でも登場人物を出せるし、いくつでも出来事も起こせる。だからこそ、そこからなにを削るのかが重要になる。「書く」ことだけを考えて「書かない」意識がない文章は贅肉だらけで冗長になる。

 

「書くこと」だけを持っている作家は二流で、一流は「書かない」ことを同時に持っている。「書かないこと」しか持っていない人は、作家になることはできない。

 

「スローなブギにしてくれ」は、そういう一曲の音楽をレコードで聴いている、そんな感じの短編かもしれない。作者がそんなことを、どこかで言っていたかもしれないし、言っていないかもしれない。

 

それがどうだったかは覚えていないが、「スローなブギにしてくれ」のことはちゃんと覚えている。

山月記(中島敦)「我流で孤高を貫こうとする人たちへ」  

 

文学を志すような人間には、人と積極的に交わる人もいるが、多くは人と交わらず、教わることをよしとせず、我流で傑作をものにしようと、社会に出てからも文学中心の孤独な人生を歩む。そして、その大半が何年たってもよい作品をものにできず、現実を知り、いずれ一般的な仕事につくのだが、あきらめるまでの時間が長いぶん本業が定まらず、仕事の経験もないので、同年代より社会的地位は低くなる傾向にある。

 

中島敦さんの「山月記」の登場人物、李徴は、詩人としての才能がありながら、他人と切磋琢磨するのをよしとせず、人から離れて詩作に専念していたが、結局、超一流にはなれず、年を重ねてから一般の公務につく。そして、学生のころ見下していた凡才たちは年齢なりの地位にいて、その下で働くことになり、発狂して虎になってしまう。

 

かつて李徴の学友だった主人公は、ある日、虎になった李徴に遭遇する。

自我が崩壊しかけている虎(李徴)の最後の詩を主人公は聞くものの、いい詩だが超一流には足りない、という評価をくだす。虎になってまで詩作を続けても、目指すところに届かないということは残酷だ。

 

自分への期待が高い、そこそこ優秀な人間は、李徴と同じような人生を歩みやすいが、他人と深く接することなく過ごしやすい現代においては、凡人までが李徴になりうる。

たいして面白くもない、誰でもできそうな仕事でも、公務員や正社員で定年まで働いていたら、それなりの地位と収入になったりもする。なにかに殉じることができるということは信頼になり、社会はそういう人たちが回している。

 

李徴の弱さは、自分を信じて詩作に最後まで殉じることができず、ぎりぎりのところで日和って、世間一般の道に戻ったことだ。その弱さで李徴は虎になった。虎になるくらいなら最後まで孤高の詩人でいればよかったのだが、それこそ李徴が超一流ではないゆえんだ。

 

現代詩作家の荒川洋治さんがどこかで、「現世では詩人の生きる道などない」という趣旨のことを書いていた。著作「文芸時評という感想」のなかだったかもしれない。文学を人生の中心として志そうとする人間は、その言葉を胸に刻んで、忘れないようにしたい。

 

山月記」は非常に短い小説で、文体は古典的で硬質だが、とても読みやすい。なにより格調の高さは比類ない。格調が高いということは、こういうことだ、という文章だ。

日本の小説でもっとも格調高い小説と聞かれたら、答えは「山月記」で間違いない。

麻雀放浪記(阿佐田哲也)「残金が百円でもそれはプロセスに過ぎない」

現代においてさほど競技人口が多いとも思えない「麻雀」を題材にした娯楽小説なのに、人生観にまで影響を与えるほどの作品で、いちばん好きな小説はなにか、と問われれば、迷わずいちばんに推す候補になるほどの小説だ。作者の安佐田哲也は、本名の「色川武大」名義で直木賞などの大きな文学賞をとっているが、色川名義の作品よりも「麻雀放浪記」とその一連のシリーズのほうがはるかに素晴らしい。作家のなかでだれが好きか、と聞かれたら、阿佐田哲也という人も、じつは多いのではないか。まだ、作家自身と、書くものの一体性が信じられていた時代の人だ。

 

麻雀放浪記」には、小難しいことを言うことなく、回りくどい描写や比喩があるわけでもなく、ただ淡々と、戦後の焼け野原から復興しつつある雑然とした日本を「ばくち」で生き抜こうとする男女の姿が描かれる。ばくちでは、得るものがいれば必ず失うものもいて、結果としてトントンで終わるものもいる。主人公がどうにかその場をしのいだかに見えても、シリーズを重ねれば、年老いて若手の後塵を拝すようになる。

 

そういったことが、麻雀を中心としたばくちを通して、生き生きとつづられる。

なぜ、この作品は、こんなにも魅力的なのか。それは、世間的に見れば人間の底辺であり、屑であるばくち打ちの主人公が、なにものにもよらず、独立して言い訳をしない姿勢であり、一見して突き放したような書き方をしながらも、最終的に全員が敗者になるかのような登場人物たちへの作者の愛と敬意が根底に感じられるからかもしれない。

 

大人になると、会社勤めをして、結婚をして、子どもを育てて、そういうのが「まともな大人」であり、「まともな人生」だという空気に折れそうになって、じっさい、主人公もかつてのようなばくち打ちではなくなっていくのだが、それでも、人生のあるほんの一瞬だけでも、世間的なよしあしを度外視して人生をまるごと賭ける行為に没入するということは、人間になにかを残す。その人生を賭ける対象が、困難な登山などではなく、同じ属性の他者との金の奪い合いという非生産極まりない行為であるからこそ、ますます生の輝きを増すことになる。

 

阿佐田哲也が、自分は落ち目だと絶望する知人を前にして、

「きみは十万円もって賭け事をして残りが百円になったら負けと思う人だ。しかし、百円が残っていればまだ賭けられるのだからその時点ではプロセスであって、勝ちでも負けでもない」

というようなことを語ったという。

そういう人が書いている小説が、面白くないわけがない。

百年の孤独(ガルシア・マルケス)「生涯残る読書体験」

コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケスの代表作にして、世界文学とくに欧米以外の文学のなかでは、間違いなく歴代一位の候補のひとつに挙げられる小説だ。多くの人が、欧米以外の文学作品、というと、この小説を口にすることになる。そしてじっさい、その価値がある。

 

いったい、この小説のなにが、そう思わせるのか。

日本の流行小説のようなキャラクター小説ではないし、ご都合主義小説でもない。主人公を輩出するブエンディーア家の人々の、名前の似たような(ときに同姓同名の)男女が、時代のいろいろな出来事を経て、子どもや孫の代まで時間を重ねていく。その描写は淡々としていて、人という駒を俯瞰しているかのようにも見える。

 

かといって、飽きることか読みづらいということもなく、どんどん読み進められるのだが、あとに残るものは、人間が生きて死ぬ、ということに対する全体的な印象だけで、人間個々の存在はぼんやりしている。そして、人間の生が、全体のなかではあっけなさすぎるものであるからこそ、逆説的に、現在進行形では、そのひとつひとつがかけがえのない、置き換えがたいものに変わる。

 

日本だと、戦国時代の山梨県周辺を舞台にした深沢七郎の「笛吹川」が「百年の孤独」に近い雰囲気をもっているが、「笛吹川」のほうが「百年の孤独」よりも先に発表されている。深沢七郎が現代において人気を博しているとはいいがたいが、日本で数少ないほんとうの世界文学のランクにある人だ。

 

百年の孤独」は分厚く見える本で、読みはじめるのは勇気がいるが、読むならなるべく、ほかの雑事を挟まずに一気読みできる時間を作って読むことを強くおすすめする。

そして、一度読み切ると、その読書体験は残り続ける。

存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ)「軽さは重さより劣るのか」

「存在の耐えられない軽さ」は、日本語のタイトルが素晴らしくよい。

 

このタイトルと、チェコ出身の作家「ミラン・クンデラ」の名前だけで、ひとつの作品であると言ってしまってもいいくらいだ。

正直、本の中身はほとんど覚えていないが、タイトルが醸し出す雰囲気のなかで、作者の語りをまじえて人間観察のような描写がつづく。

 

登場人物には、だから、愛着がわきすぎることもなく、登場人物同士も完全に信頼しきってはいない。

人間存在のあまりの軽さ、人生の瞬間がすべて一度きりということの軽さは、個人から見た逆の見方をすれば重さでもあるのだが、この小説ではそれを俯瞰して軽さとする。

 

だからといって、「軽さ」が「重さ」に劣るとはだれも言っていない。

 

体重は軽すぎなければ軽いほうがいいと思う女性は多いし、スマートフォンでもなんでも重いより軽いほうがいい。適度な重さが所有欲を満たすことがあるとしても、近現代の人間は全体的には、軽く、薄っぺらくする方向性を進化と呼んできたはずだ。

 

先進社会では、IT技術の進歩によって、人間存在の軽さと薄さが極まりつつある。

 

だれもがだれとでもつながれる、ということは、ほとんどすべての人間が代替可能ということと等しい。だれもがつながりたいような一部の人間が総どりして、その他大勢の人生に出番はない。

昔なら、家庭のなかや、町内レベルで存在を誇示できたコミュニティが全世界に広がる。家庭のいちばんや町のいちばんなど、世界レベルではごみ扱いで敬意が払われることもない。

 

人間はそうやって、長年かけて獲得した自由と尊厳を、自らを追い詰める方向に向けて行使している。

 

「存在の耐えられない軽さ」は、そういうことを書いた小説では、たぶんない。

 

読んだのに内容はほとんど思い出せないが、この最上のタイトルを目にしたら、そこに書いてあるはずの根源的な示唆を求めて、一度は通読したい欲求にかられるものだろう。

グレート・ギャツビー(スコット・フィッツジェラルド)「疑いなく至上最高の小説のひとつ」

 この小説を小説家の村上春樹さんが第1位に位置づけているのは有名だが、「グレート・ギャツビー」をどう評価するかということが、「小説を読める」ことについてのひとつの指標になるかもしれない。

 

村上春樹さんは代表作「ノルウェイの森」の登場人物に「グレート・ギャツビー」を読む人間は信用できる、死語50年を経ていない作家は読まないが(当時)まだ50年たっていないフィッツジェラルドはアンダーパーでOK、というようなせりふを言わせた(と思う)。作者の文学的な好みを登場人物同士で語らせるというのは褒められた手法ではないかもしれないが、そのくらいのことだということだ。

 

本屋大賞に出てくるような流行小説が「グレート・ギャツビー」を凌駕する可能性は限りなくゼロに等しく、ゼロと言い切ってしまってもいい。両者を比較して「なにが好きな小説か」という質問で流行小説を挙げるならともかく、「どちらがよい小説か」を問われて「グレート・ギャツビー」を選ばない人に小説を見る目はない。「グレート・ギャツビー」と並び立つ小説はそう多くはない。たしかアメリカの小説のオールタイムベストの1位にも選ばれた。

 

かつては「グレート・ギャツビー」のなにがグレートなのか、よくわからなかった。

 

そういう人がけっこう多いということが、村上春樹版の翻訳のあとがきにも書いてある。それで村上春樹版を読んで、傑作だということがわかったので翻訳は同氏のものをおすすめする。人気のある同氏の小説群だが、いちばんの仕事は「グレート・ギャツビー」の翻訳だといっても過言ではない。

 

この「グレート・ギャツビー」という小説には、人生に対する姿勢のようなものが書いてある。

 

時代に翻弄されて手からこぼれ落ちてしまった過去の愛を取り戻そうと、手段を問わず全身全霊を尽くすギャツビーの姿は、はたから見たら滑稽で、うすっぺらにさえ見えるかもしれない。

 

一般的な社会生活のなかでは、安定した仕事や立場が先にあって、それを基盤として恋愛や結婚をしたりする。そのなかで、自分が好きな人とは違う人と付き合ったり、自分なんて、とひとりでいじける。金持ちになって意趣返しとばかりに女をはべらせる。もしくは選べるうちで一番いい女を手に入れる。

 

一見、「グレート・ギャツビー」は、ありふれた俗っぽい金持ちの恋愛話のようにも見え、映像作品の派手な演出でなおさらそうなってしまいそうだが、まったく違う。

 

ギャッツビーは、ただひとりの女にだけ向けて、人生におけるすべての力を注ぎ、あらゆる手段をとる。それも、向かっているのは未来ではなく、過去に女とふたり幸福だった時代をそっくり再現するために。

 

その姿勢をギャツビーは、小説の最後まで貫く。

それは、社会生活を「まっとうに」送っているはずの人間には受け入れがたい生き方だ。だからこそ、小説の終盤、主人公がギャツビーにかけた最後の言葉が胸を打つ。そのひと言には、だれにも理解されない自分だけの人生を生きている人を鼓舞する力がある。